09.20
北陸支教区「六花の会」高岡教会南 雅子
皆さま、お願い致します。本日は体験を発表する機会を頂き誠にありがとうございます。
私は、富山県の立正佼成会高岡教会に所属し、氷見市で南学習ゼミナールという学習塾の経営、講師をしております。氷見市は能登半島のちょうど付け根の部分に位置しており、今年の元旦の地震では住宅や道路などにたくさんの被害がありました。地震直後からの断水の影響で生活するのが困難な時、すぐに県外の教会から飲料水が届けられ、心の底から助かったという思いになりました。一人1本ずつ飲料水を渡すとき合掌されて受け取る会員さん方の姿を今も忘れることができません。その後、いろいろな教会から励ましのメッセージが届き、それが前向きに頑張っていこうという気持ちの後押しになりました。皆さまの温かいご支援にこの場をお借りしてお礼を申し上げます。ありがとうございました。
私にとって学習塾の仕事は天職だと思っていますが、32年前結婚した当時は、将来、学習塾の経営をするなんて想像もできませんでした。結婚した一年後に主人の母が脳梗塞になってしまい、その後の十数年は介護、育児、家事と余裕のない毎日を送っていました。ふと周りを見れば20代・30代の大半の主婦は仕事をしていて社会と繋がりを持っている。それなのに私はほぼ一日中介護ばかりで、まるで社会から切り離されていることに何とも言えない虚しさや焦りを感じました。何とかして社会と繋がりたいと思った時に、私のできることは大学生の時にアルバイトでしていた家庭教師しかなかったのです。
主人や実家の協力を得て家庭教師を続けているうちに口コミで次第に生徒さんが増えていき、その結果今の学習塾の形に移行したのが13年前になります。20代、30代の頃は複雑な思いを抱えて介護することが多かったのですが、現在、私も姑の立場を経験してみて初めて嫁に介護される亡き母の気持ちがしみじみと分かるようになってきました。病気の母がいなければ私は今、学習塾の仕事にめぐり合うことはなかったでしょう。母には心から深く感謝しています。
さて、私が開祖さまの『経営者心得帖』に出会ったのは今から5年前です。教会では主任のお役を頂き、家に帰ると家事に追われ、夕方からは小学生が学習塾に来て、夜には中学生が来ます。
仕事をしているせいで受け持ちの会員さんのお手どりが疎かになるのではないか、などといろいろな考えが湧いてきて生徒さんに勉強を教えながらも頭の中は信者さんのことでいっぱいになることもしょっちゅうでした。
「このままでは主任のお役も中途半端、学習塾も中途半端になってしまう」とモヤモヤした気持ちを感じていました。仕事とお役の両立はやはり無理なのではないか…と悩んでいた時にその当時の教会長さんから勧められたのが『経営者心得帖』でした。
開祖さまはこの本の中で「仕事と信仰を別物と考えるから、両立などという言葉が出てくるのです。仕事と信仰は一体でなければなりません。いや、もともと一体なのです」とおっしゃっておられます。それまでの私は仕事や家事と信仰を同じ次元のものとして考えていました。しかし、そうではなかったのです。信仰とは全く次元の異なるものだったのです。一日24時間、いつも私は信仰者であって佼成会の会員さんも塾の生徒さんもすべての出会いは私を高めるために仏さまがくださった大切なご縁だと気付き、感謝できるようになると、気持ちがスッキリして、その時その時の出会いにまごころで向き合う元気が出てきました。
『経営者心得帖』との出会いは仕事に対する考え方を根底からひっくり返しました。思い返せば学習塾を立ち上げたばかりの頃は、少しでも売り上げを伸ばそうと生徒さんを増やすのに必死でした。私の塾のうわさを聞き、「是非、南塾さんでお願いしたい」と生徒さんが他の塾を辞めて移って来られる時が何度かあり、そういう時は、競争に勝利したように有頂天になりました。しかし、当然ながら逆のこともあり、「南塾にいても成績が上がらないので辞めます」と塾を辞められる生徒さんもおられました。変化を受け入れられない私の心の中はそういう生徒さん方が私の塾のありもしない悪いうわさを広めるのではないかと疑心暗鬼になり、自分で自分を苦しめていました。このように学習塾を始めたばかりの時は売り上げが増える・減るにいつも捉われていて、心が落ち着くことはありませんでした。
今になり、『経営者心得帖』を読んでみると当時の自分の失敗の原因がどこにあったのかよく分かるのです。開祖さまは、「同じ仕事に、同じように精出すにしても、自分のためばかりを目的として働くのと、世の中全体のためという精神を基底として働くのとでは、その過程においても、結果においても雲泥の差が生ずる」と教えてくださっています。私は生徒さん一人ひとりの今の幸せ、将来の幸せを願いながら学習塾という自分に与えられた場所で精一杯心を込めて仕事をすればいいだけだったのです。収入はふさわしくついて来るものであるのに、収入を得ること自体を目的にして自己中心で働き、真理に反している考え方によって自らを苦しめていたのです。
我が家は結婚して32年になる主人と長男夫婦、次男、二人の孫の七人家族です。時にはそれぞれの欠点も見え隠れするのですが、「まあまあ、お互いさまね」と許しあい、お互いを認められるようになりつつある七人家族だと思っています。どうしてこのようになれたのかをかみしめた時に、朝晩必ずご宝前で心を込めて手を合わせる主人の姿が浮かびました。主人は小学3年生の時に産みの母親を亡くし、世渡り上手とは言えない人なのですが、仕事での出来不出来に左右されず、ひたむきに祈り、生きる後ろ姿を息子や孫、そして私に見せてくれていたのです。また主人をはじめ家族みんなが私のお役に対して理解し協力してくれるので、とても感謝しています。
私は現在、会長先生のお徳をいただき、支部長のお役を拝命して三年目になります。「支部長のお役を」と声が掛かった時は気負わず、人と比較せずに自分のできることをコツコツやっていこうと自分に言い聞かせました。それでも、主任のお役を三年しかやっていない経験不足の私は教えを信者さんにお伝えする能力がそもそも足りないのではないかという不安もありました。しかし、実際にふたを開けてみると、信者さんにとってはベテランの支部長も新米の支部長も関係がないことを理解しました。支部長は支部長なのです。目の前の信者さんの話をとにかく丁寧に聞こう、そして、仏さまを深く念じ、その方の心が少しでも解放されるようないいご縁になろうとする私がいました。私が信者さんをお救いするのではない、仏さまが救ってくださるのだ。そのために私にできることは、目の前の方が仏の子であることを信じて、幸せを強く願い、私自身が真理のレールに乗ったものの見方、生き方をしていくように努めることだと思いました。
私には支部長のお役と学習塾経営との両立という概念が今では全くありません。支部長として布教することで更にこの考えが強くなりました。ひとりの信者さんと向き合う時、この方の生い立ち、今、困っていること、嬉しいことをお聞きする中にどうしたらこの方の持ち味を生かすことができるだろうかとよく考えます。それは塾の生徒さんに対しても全く同じで、苦手なこと、得意なこと、部活動や家族のことを聞き、どうしたら自分の持ち味を発揮して肯定的に生きていってくれるだろうかという思いで彼らとつきあっています。以前の私なら成績を上げるために、とにかく知識を教え込もうとしていましたが、もっと大切な関わり方があることを支部長のお役を通して学びました。支部長のお役が学習塾経営にも生かされていると実感しています。
現在、高岡教会の高岡六花の会では「六花塾」と称し、一年に二回程度、地元の企業の経営者をお招きして講演並びに研鑽会を行っております。会社経営の厳しさの中で葛藤し、考え抜く中でピンチをチャンスに変え、新たな道を切り開く実践的な心構えと創造的な取り組みを学んでいます。六花の会は法華経の教えを経営に生かす魅力に溢れています。支部長のお役を頂く前から、コンビニエンスストアを経営している方とご縁があり、その方に是非とも開祖さまの教えに触れてほしいと思っていました。その方をお誘いするためには、まず私自身が六花の会のことをよく知る必要があると思い、高岡六花の会の幹事として企画、運営に携わるようになりました。会員、未会員を問わず、お誘いしています。支部の垣根を越えて、様々な仕事を持つ方々との研鑽会は新しい世界が開けていくようでワクワクします。
現在、高岡六花の会で共に幹事を務めるK主任さんは、地震の後、自らも被災した痛みを抱えながら、意気消沈する街に活気を取り戻そうと努力しています。子供の頃、暮らしていた築108年の古い家をホールに改築して、自ら運営し商店街の有志と連携してさまざまなイベントを開催しています。最近では、障がい者の方のアート作品展や落語家さんを呼んで、氷見市内外の方々に足を運んでいただいています。こうした善き仲間と共に六花の会の学びと活動が人生を照らし、経営の醍醐味を味わい、そして地域に元気を届けていけるよう、これからも精進をさせていただきます。
合掌