2024
09.30

仕事と信仰のかかわりあいについて

分かち合い

仕事と信仰のかかわりあいについて
アーカイブズ「佼成」昭和五十六(一九八一)年六月号
庭野日敬 立正佼成会開祖
出典「佼成」令和6年10月号 (㈱佼成出版社佼成編集部)

◆世間法仏法に異ならず

 この春就職した若い会員の人たちから、仕事と信仰をどう両立させればいいか、といったような質問をたびたび受けますので、今月はそのことについて篤と考えてみることにしましょう。

 さて、第一に申し上げたいのは、「両立」という考え方が、そもそも間違っているということです。仕事と信仰を別物と考えるから、両立などという言葉が出てくるのです。仕事と信仰は一体でなければなりません。いや、もともと一体なのです。お釈迦さまも、
「仏法世間法に異ならず、世間法仏法に異ならず」
とおおせられています。仏法と世俗の真理とは別物ではない、一体のものなのだ、というおおせです。また、
「世間に入得すれば出世余りなし」
とも説かれています。世俗の世界に入って、それをわがものとし、自由自在となれば、出世間(出家)の法の余地はないのであって、仏法は完全に実現されているのである、という意味です。

 キリスト教のほうでも、マルティン・ルター(宗教改革の端を開いたドイツの偉人)は、聖書の創世記を講解した中で、「職業は神から与えられた使命そのものであるから、その摂理に従っておのれの職業に務め、その賜による生活に満足しなければならない」と説いています。

 このような真理と心得を仏法に即して分かりやすく説いた『万民徳用』という著作がありますので、少しくわしく紹介することにしましょう。これは、徳川家康・秀忠に仕え、のちに出家して曹洞禅を修めた鈴木正三という高僧があらわした書で、不朽の名著といわれているものです。
 その中の『農人日用』という章に、こうあります。現代語に抄訳してみますと、
 農民というものは、天から授けられた世界養育の役人(役目を持つ人)である。だから、わが身を一筋に天道にお任せして農業をなし、五穀を作り出して神仏をおまつりし、万民の命を助け、虫類に至るまで施したいという大誓願を起こして、一鍬一鍬に南無阿弥陀仏と唱え、一鎌一鎌に心をこめて仕事をすれば、田畑も清浄の地となり、五穀も清浄食となって、それを食べる人にとっては煩悩を消滅する薬となるであろう。

 この「世界養育の役人」という言葉の重みをよくよく噛みしめてみることだと思います。たんなる生計のための働きではなく、世界を養う大役をになっているのだ、という自負と責任感、これは農民だけでなく、あらゆる職業の人が同じような考えを持たなければならないと思うのです。
 また、ひたすらな布施の心を持って、一鍬一鍬、一鎌一鎌に念仏を唱えながら仕事をすれば、田畑も清浄となり、作物も清浄食となるというのは、けっして神がかり的な言い方ではありません。「三界は唯心の所現」ですから、たしかにそのとおりになると、わたしは信じます。

◆職業行為のうえで成仏する

 同書の『職人日用』という章には、こうあります。
 ある職人がわたしに問うた。「菩提を願うのは大切なことだとは思いますが、家業が忙しくて、そんな暇がありません。どうしたら仏果に入ることができましょうか」と。
 わたしは答えた。「どんな仕事でも、みな仏行である。それぞれの職業行為の上で成仏すればよいのだ。それには、どんな仕事においても『これは世界のための仕事だ』と知らなければならない。久遠実成の本仏は、百億に分身して世界を利益したまうのである。自分はその分身の一人だと知り、したがって、自分の仕事は仏の仕事であり、世界のための仕事であると知ることである」と。

 この「世界養育の役人」という言葉の重みをよくよく噛みしめてみることだと思います。たんなる生計のための働きではなく、世界を養う大役をになっているのだ、という自負と責任感、これは農民だけでなく、あらゆる職業の人が同じような考えを持たなければならないと思うのです。
 また、ひたすらな布施の心を持って、一鍬一鍬、一鎌一鎌に念仏を唱えながら仕事をすれば、田畑も清浄となり、作物も清浄食となるというのは、けっして神がかり的な言い方ではありません。「三界は唯心の所現」ですから、たしかにそのとおりになると、わたしは信じます。

◆職業行為のうえで成仏する

 同書の『職人日用』という章には、こうあります。
 ある職人がわたしに問うた。「菩提を願うのは大切なことだとは思いますが、家業が忙しくて、そんな暇がありません。どうしたら仏果に入ることができましょうか」と。
 わたしは答えた。「どんな仕事でも、みな仏行である。それぞれの職業行為の上で成仏すればよいのだ。それには、どんな仕事においても『これは世界のための仕事だ』と知らなければならない。久遠実成の本仏は、百億に分身して世界を利益したまうのである。自分はその分身の一人だと知り、したがって、自分の仕事は仏の仕事であり、世界のための仕事であると知ることである」と。

 たんに「世界のための仕事だ」と知ることは、信仰を持たない人でもできましょう。それだけでも、じつに大きな意義があります。
 しかし、もっと深く「自分は仏の分身である。したがって自分の仕事は仏の仕事である」という固い信念を持ちえてこそ、仕事に没入し、徹し切り、働くことに無限の喜びを覚えることができるのです。ここのところが、信仰を持つ人と持たない人との相違であると思います。

 さらに『商人日用』という章にも、じつにいいことが書いてあります。
 商人にとって何より大切なのは、正直ということである。天の道に従い、正直を旨として商いをすれば、水が自然に低いほうへ流れるように、天の福が相応してきて、万事が心に叶うようになる。さらに、わが身を世界になげうち、一筋に国土のため万民のためと思い定めて、自国の物を他国に輸出し、他国の物をわが国に輸入し、遠い国々、遠い町々まであまねく潤して人びとを満足させてあげようと誓願して国々をめぐることそれ自体が、業障を消滅する修行であると心得よ。そのようにして商いの道に励めば、諸天善神のご守護がかかって、得利もすぐれ、福徳円満の人となるであろう。
 これはただ、個人としての心得であるばかりでなく、そのまま経済大国たる現在の日本のあるべき姿であるとつくづく思います。
 いずれにしても、仏法即生活であり、職業即生活であることを、この際あらためて、よくよく腹の底に銘記されることを望んでやみません。

◆犠牲なくして菩薩行なし

 さて、これまで述べてきたことは、働くことの本質と仏法の本質の一致についてでありましたが、「働く人の信仰活動」ということになりますと、問題がおのずから違ってまいります。
 およそ人間には、「理想」というものがなければ、人間らしい人間とはいえません。現実の、今日ただいまの働きに精根を尽くすのも、『万民徳用』にあるような精神をもってすれば、じつに立派なことなのです。
 自分自身の成仏になります。そして、他の人びとをも、現実的には利益します。しかし、ほんとうに人間らしい生き方を志向する人にとっては、それだけでは何か物足りない、何か不十分なものが残るはずです。
 何が物足りないのか、何が不十分なのかと言いますと、人間にはつねに、現実よりさらに上のほうの世界へ進みたい、究極的には、はるか彼方にある完全な幸せの世界に到達したい……という、無意識的な、あるいは意識的な願望があるからです。

 そういった願望を「理想」というのです。そして、そのような理想を胸に描き、それに向かって積極的な行動をしてこそ、人間らしい人間たり得るわけですから、ただ働くだけでは何となく物足りないのです。
 わたしどもが信奉している大乗仏教とは、そうした「理想」をはっきりと打ち立て、それに向かって、積極的に生きる道を指し示す教えにほかなりません。
 自分だけが幸せになっても、それは完全な幸せではない、ひと・われ共に幸せになってこそ、究極の幸せの世界が実現するのだ。それには、ひとを救い、ひとを幸せにする積極的な行動がどうしても必要なのだ……というのが、その教えなのです。

 わたしどもの会は、この大乗仏教の教えを忠実に守り、その実践にけんめいに取り組んでいる団体ですから、必然的に、多くの人びとを仏道にお導きし、幸せになっていただくよう、手を取ってさしあげる活動をたいへん重視しております。そこで、冒頭にかかげた「仕事と信仰を両立させるには」という質問も、そうした意味を多分に持ったものだと解釈し、それについてわたしの考えを述べてみましょう。

 むかしの庶民の暮らしと違って、いまは生計のうえでも、時間のうえでも、たいへんにゆとりが出来てきました。勤めている人でも、たいていは五時ごろには自由の身となり、土曜・日曜と二日も休める人も多くなりました。
 わたしが漬物屋や牛乳屋をやりながら、お導きをしていたころにくらべると、現在はまったく別天地の感があります。そのゆとりを使って信仰活動をするならば、十分過ぎるほどのはたらきができるはずです。
 信仰者でなければ、その余暇の分をいろいろな楽しみに遣いたいところでしょう。その楽しみを犠牲にするのが惜しい……そんな気持ちがとくに若い人にはあるのではないかと思います。
 しかし、ある程度、犠牲を払わなければ菩薩行とはいえないのです。菩薩行をしなければ、ほんとうの信仰者とはいえないのです。ここのところを、しっかりと考えていただきたいと思います。

 みなさんは大乗仏教の信奉者です。めざめた人です。いまの世を立て直そう、真に平和な世界を創り上げようという理想に燃えている菩薩です。菩薩であるかぎり、時間と労力の犠牲など覚悟のうえ……こういう勇猛心が欲しいものです。
 みなさんは仏の行を行じているのです。仏さまの身代わりとなっているのです。仏さまの手足となっているのです。そうであるかぎり、仏さまのご守護がかからぬはずはありません。
 はじめは犠牲を払っているように感じても、しだいにその犠牲感が薄れ、人を救う活動がうれしくて楽しくて、仕方がないようになります。そして、自分はほんとうに人間らしい、意義ある人生を送っているのだ! という法悦感が心の底から湧き上がってきます。かならずそうなります。それが何よりのご守護です。もちろん、現実生活も、かならず幸せになります。

 これは、わたし自身の体験からしても、これまで何十万・何百万の信者さんの行持を見てきた経験からしても、間違いありません。
どうか、以上のことをよくよく心に留め置いて、大いに精進していただきたいものです。精進とは実行ということです。たえまない実践ということです。それがあってこそ、人間は向上するのです。

 法華経の『授学無学人記品』に、「我阿難等と空王仏の所に於て、同時に阿耨多羅三藐三菩提の心を発しき。阿難は常に多聞を楽い、我は常に勤め精進す。是の故に我は己に阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり」
とおおせられているくだりを、もう一度、よく読み直し、考え直していただきたいものです。