2025
03.03

「深刻な不況下に何をなすべきか」

分かち合い

開祖法話アーカイブズテキストデータ
このご法話は、「佼成」令和7年2月号に掲載されたものです。
「深刻な不況下に何をなすべきか」
昭和五十(一九七五)年二月号

庭野日敬 立正佼成会開祖

◆素直に処すれば かならず好転する

 一昨年暮れあたりから始まった不況は、ますます深刻になりつつあります。会員のみなさんの中にも、事業のゆきづまりなどで、たいへんな苦しみを嘗めておられる方もあることと思います。わたしは経営コンサルタントではありませんので、個々の苦境の乗り切り策をアドバイスすることはできませんが、仏法の信仰者の一人として、同じ仏法の信仰者であるみなさんに、このような場合に、いかに身を処すべきか、どんな考えを持つべきかについて、大乗的な立場から忠告申し上げることだけはできると思います。
 当然なことかもしれませんが、まず申し上げたいことは、こういう際にこそ仏法の真理をあらためて思い起こし、その真理に対する信を深めることであります。中でも第一に思い起こすべきは諸行無常ということです。すべてのものごとは変化するということです。つまり「このままの状態がいつまでも続くものではない」ということです。
 自然界にはおのずからなるリズムというものがあります。太陽の運行も、月の満ち欠けも、季節の移り変わりも、一種のリズムをもって行われています。自然界の一員である人間も、やはり、リズムに生きています。呼吸も、脈拍も、昼は働き夜は眠るという生活のあり方も、すべてそうです。景気・不景気にも、大きく見てやはり、リズムというものがあるのです。中国の言葉に「陰極まって陽生ず」というのがありますが、まさにそのとおりです。ですから、けっして絶望的になってはいけません。事情はかならず変化するのだということを腹の底に据えて、現在の状況下に生き抜く努力を尽くすことです。
 第二に思い起こすべき大事な教えは質直・柔軟ということです。質直とは、心に飾りけがなくて素直なことです。これは得意の時代にも必要な心がけですが、失意の時にはなおさら大切なことだと思います。飾りけというのは、もっと分かりやすく言えば、みえということです。このみえというものが人間の生き方に、どれぐらい禍するか計り知れないものがありますが、それが特に顕著に現れるのは、生活がにわかに落ちこむその移り際の時です。
 これまでたくさんの人を使い、りっぱな家に住み、派手な暮らしをしていた。ところが、不況のために事業がダメになった。そのような場合、親戚知己や近隣や家族などへのみえに深くとらわれている人は、つい無理な借金をして二進も三進もいかなくなったり、不正なことをしでかしたり、あるいは一家心中をしてしまったり……そんな結末になりがちなのです。もし、一切のみえをかなぐり捨て、食べられるだけの仕事に取りつき、生活を切り詰めてジッと我慢しよう……という決意を持つならば、今の日本で飢え死にするなどということはありません。いや、そんな生き方をする人には、必ずまた時世時節が巡ってくるものです。
 このような人を、心の柔軟な人というのです。仏教でいう柔軟とは、真理に対して素直に従う心ざまを言うのですが、それを日常的に拡大解釈すれば、環境に正しく順応して生きる態度ということにもなるのです。そのような柔軟さは、みえがあっては生まれません。ですから、仏説の中にも質直と柔軟はよく一対の言葉として用いられているのだと思います。ともあれ、この質直・柔軟という心ざまが今ほど必要な時はないと、わたしは思うのです。

◆経済の原則は奉仕の交流と知れ

次に大切なのは、懺悔ということです。懺悔とは、過去を反省し、今後進むべき正しい道を打ち立てることです。
 こういう気持ちは、盛運の時代にはなかなか湧いてこないものです。運勢が衰えて冷たい風が身にしみるようになった時は、否が応でもそうせざるをえなくなるものです。今はちょうど、そういった時なのです。
 あなたは「現在のインフレや不況は世界的なものであって、自分が招いたものではない。だから、自分一人が反省し、心を改めてみたところでどうなるものでもない」と考えられるかもしれません。しかし、今の状況は天から降ってきた禍ではなく、あくまでも人間がつくり出したものなのですから、もし世界中のすべての人がそんな投げやりな気持ちでいるならば、どうして抜本的改善ができましょうか。
 よしんば世界のトップ・クラスの政治的努力によって一時的な好転はありえても、万人の目ざめがなければ、いつかはまた同じような事態が繰り返されるに違いありません。
 今の異常物価は、産油国が原油の値段を一年に四倍にも上げたのが最大の原因だと言われていますが、そうさせたのは何かということを反省してみることが大切です。これまで消費国は、あまりにも安い値段で石油を買い、湯水のように使ってきたのではないでしょうか。そして、当のアラブ諸国の開発にはなかなか手を貸さず、ほったらかしていたのではないでしょうか。これでは、あと数十年で枯渇するという唯一の資源をかかえた国国が、いつまでも唯唯諾諾としているはずがないではありませんか。
 国内的にも、それに似たような一方的な商法や、不平等や、思いやりのなさや、ムダ遣いなどが横行してきました。
 大生産企業は政治と癒着して自らを肥らせることのみに汲々とし、大商社は何が本業か分からぬほどあらゆる業種に手を伸ばして力のない専門業者を圧迫し、各段階の流通業者はインフレに便乗して不当な値上げを平然と行う……といった具合に、強者が弱者を犠牲にすることも多かったのです。
 中小企業者にも反省すべき点がないとはいえません。不動産業がいいとなればドッとそれに走り、建設業が儲かるとなれば、われもわれもとそれを始める。目先の利益だけを考えて、長い見通しなど立てはしない。こういった不定見・軽率さがありはしなかったでしょうか。
 このようなことをつらつら反省してみますと、これからの経済活動のあるべき姿がおのずからそこに浮かび上がってくるのです。つまり、すべての段階において、「世間に奉仕する」という精神が基調にならねばならぬということです。といえば、宗教家の現実離れのした言葉のように笑う人があるかもしれませんが、わたしは、これこそが真実であり、真実はかならず現実の中にも生かされうるものだと確信しています。
 生産者は、なるべく質のよい製品を、なるべく安くつくって、世の人びとに奉仕する。流通業者は、なるべく安く、なるべく便利に商品を供給して、世の人びとに奉仕する。そして、それらの働きに見合う程度の妥当な利潤を得る。消費者は、それらの物資を必要なだけ買い、ムダなく使うことによって、物のいのちを尊重すると同時に、それを生産・提供してくれた人びとにも陰ながら感謝する。これでいいはずではありませんか。そうした奉仕の心と奉仕の心が交流するところに、人と物すべてを平等に生かす、無理のない、融通無碍の経済があるのではないでしょうか。今こそ事の根源に立ち返って正しい道を切り拓く、このような懺悔を行う絶好の時機だと思うのであります。

◆大衆がリーダーを目ざめさせる

 民主主義の時代というのは、大衆が自らを政治していく時代です。これまでの日本は残念ながらそこまで行っていなかったのですが、危機が切迫するにつれてそうした機運が高まってきました。経済の問題についても、やはり、それが言えると思います。まず大衆が目ざめることです。貪欲を去り、みえを捨て、実質的な生活ぶりを堅持することです。それは、あらゆる社会機構・経済機構に影響を与えずにはおきません。目ざめさせずにはおきません。
 今の狂乱物価を鎮静させる鍵は賃金問題にあるといわれていますが、これについても、やはり労働者大衆の真の目ざめがリーダーを動かさねばどうにもならないのではないかと思います。リーダーには、どうしても立場上のみえというものがつきまといます。「使用者側とこの辺のところで折り合わなければ日本の経済そのものが危機に瀕する……」といったようなことは、労組機構のトップに立つぐらいの人には分かっているはずです。
 この世はすべてバランスによって成り立っています。宇宙のありかたを巨視的に眺めてみますと、一兆の一千億倍個もあるという天体が、それぞれ、自身の動きを持ちながら、しかも大きなバランスを保っています。微視的に見ましても、さまざまな素粒子が生成と消滅を繰り返しながら、お互いが引き合い、依存し合って、整然とさまざまな物象をつくり現しています。つまり、この世に孤立した存在は一つもなく、網の目のように繋がり合い、バランスを保ち合って存在しているのです。ですから、その一部があまりにもわがままな動きをすれば、網の目は破れてしまうことは必至です。
 自然界には、そのような過度のわがままがありませんので無事なのですが、人間は幸か不幸か〝発達した〟心というものを持っているために、貪欲・虚飾をとめどもなく増大させることによって、愚かにも無理な網の引っ張り合いをやっているのです。
 これが高ずれば、網はズタズタに破れて、人間みんなが共倒れになってしまいかねません。恐ろしいことです。
 お互いさま、この辺で目を覚まそうではありませんか。危機だからといって一時逃れのアガキばかりやっていたのでは、救いはありません。危機だからこそ、根本の真実に立ち返らなければならないのです。わたしはそう固く信じています。