03.29
【本のご紹介】『小説上杉鷹山』上巻・下巻
私が、上杉鷹山を知ったのは30年以上の前のこと。映像取材制作のために宮崎県高鍋市を訪れたときだ。今でも記憶に残っているのは、鷹山が家督を譲る際に申し渡した藩主としての心得えで有名な「伝国の辞」だ。
伝国の辞(要約)
一、国(藩)は、先祖から子孫へ伝えられるものであり、我(藩主)の私物ではない
二、領民は国(藩)に属しているものであり、我(藩主)の私物ではない
三、国(藩)・国民(領民)のために存在するのが君主(藩主)であり、君主のために存在・行動する国・国民ではない
当時の状況を考えると、このような理念を打ち立て、実行することは大変なことだったに違いない。江戸幕府の時代、武士は己の体面を保つために、儀礼を重んじ、祖法にしがみつき、そして、藩が財政的な窮地に陥っても、自分たちの生活は改めず、農民に課する税を高くすることで、ただただ、武士も農民も生きながらえているだけであった。その時代の中でも、鷹山が養子に入った山形の米沢藩は、幕府に藩廃止を願い出るほどの荒廃ぶりであった。なんと、15万石のうち13万3千石が家臣の給与総額であったのである。
そこに、17歳で九州の高鍋藩から養子に入り、19歳で藩の改革案を掲げて米沢に入る鷹山を待ち受けていたのは、人々の心の荒廃であった。
「自分は正しい。間違っているのは、従来の作法を変えようとするお屋形さまである」
鷹山が、早速、城内の空いた土地に桑の苗を植えても、その夜には、反対派の重臣たちの息子たちが、すべて引き抜いてしまう。翌朝、その重臣たちは、鷹山の問いに「犬の仕業であります」と、平気で嘘をつく始末であった。
鷹山は、藩には3つの壁があると判断した。
① 制度の壁
② 物理的な壁
③ 意識(心)の壁
「改革とは、この3つの壁を壊すことである」と考える。特に壊さなければならないのは、③の「心の壁」だと確信する。そこで、その壁を叩き壊すためには、
一. 情報をすべて共有する
二. 職場の討論を活発にする
三. その合意を尊重する
四. 現場を重視する
五. 城中(藩庁)に、愛と信頼の念を回復する
とし、藩改革、いや、一人ひとりの心に「愛と信頼の念」の火種をともすことに、全身全霊を尽くしたのである。
家臣や藩民の無視もあり、誹りもある。ましてや、改革を共にしてきた仲間の裏切りもあった。しかし、鷹山は、決して「愛と信頼の念を回復する」ことの灯を消すことはなかった。その火種があればこそ、困難を乗り切れたのだと、私は、考えている。
なぜ、今までの藩主の改革は失敗したのだろうか。
鷹山は「改革者が、改革される側の痛みに深い理解と同情を示さなかったこと」と語る。
「財政が逼迫すれば必ず改革が行われる。あるいは思い切って身を削ぎ、身軽になって、新しい仕事に集中するために、古い仕事を切り捨てるようなことがある。そのために、組織を縮小し、人員を減らし、経費を切り詰めるというのは常套手段である。しかし、藩民のために行う改革は、日常業務の中で行わなければならない」
鷹山は、討論と合意によって案を生み、良い方法を日常業務として実現していくことが、真の改革なのだと決意する。その鷹山改革の成功の可否は、天明の大飢饉のとき、米沢藩から飢餓による死者を一人も出していないこと、当時の殖産事業が、今なお米沢の地で受け継がれ、人々を潤ましていることで判断できるだろう。
日本で、上杉鷹山が注目され始めるのは、アメリカ合衆国のジョン・F・ケネディの言葉である。「日本で一番尊敬する人は」とのインタビューに「上杉鷹山」と答えたからだ。
生前、「仏教経営者塾」の専任講師であった福永正三先生の秘書として仕えた、「六花の会」事務局スタッフの竹嶋克之は、Webコンテンツ「福永正三先生随聞記2」で、上杉鷹山についての次のような逸話を投稿している。
福永 会社を再建するときにな、社員に本を買って読ませ、感想文を書かせたわ。わしの考えに合う感想文を書いた社員を集めて、改革をはじめたんや。
秘書 先生!その本を教えてください!
福永 童門冬二さんの『小説 上杉鷹山』や。
上杉鷹山の物語は、改革を志す多くの人のこころに、火種を、今も灯し続けている。
その「愛と信頼」という火種が灯り続けることを願って止まない。
本のご紹介
著・童門冬二
文庫
本体価格 各660円+税
学陽書房